marumaru_game’s blog

プログラミングとお絵描きの進捗を報告するためのブログです。ミニマム週一であげたい。

日本の音楽史

本当はユニティについて書こうと思ったんだけどなんせ夏休み前のテスト期間だからやることが山積みで 余裕がないので今期最後のゼミの内容について書こうかと。

前回の分、補足しなきゃー!!

イラストも全然かけてない…(;o;)

 

…まあ気を取り直して日本の音楽史について触れようかなと。

 

まずは軽く通史的に。

 

縄文弥生あたりのそれ以前の頃は西洋東洋ともに声楽が中心だった。遺跡などから楽器や音楽がうかがわれるものの、推測するには難しいとのこと。

 

そのあとだんだん中国との交易が盛んになって遣隋使・遣唐使が行き来する間に仏教などと一緒に音楽も入ってくることに。

神楽、東遊、倭歌、五節舞、久米舞などの日本古来のものと、高麗舞、唐楽などの外来系音楽がそれぞれすることになり、催馬楽などの既存音楽と外来音楽のミックス型が誕生。

この後、これらの音楽を取り仕切るために宮廷に雅楽寮ができることになる。

西洋では教会音楽が発達していた。でも、カノッサの屈辱なんてのが有名だけど当時政治よりも宗教にかなりのウエイトがあったため宮廷での保護が不要で自力で発展していくことに。

この後遣唐使が廃止になるので文学だけではなく音楽もセオリー通り国内で発展をして行った。

楽制改革によって古来の音楽と外来音楽(中国系左舞・朝鮮系右舞)の整理とアレンジ、統合可能な楽器の整理が行われることになり、中国から入ってきた音楽の理論は膨大だったためにこれを簡素化する取り組み(音階を和名にするなど)も行われることになった。

この頃日本でも、もともと貴族の権威の象徴として扱われてきた音楽が今度は宗教音楽として発達するようになる。西洋では合唱形式が盛んだったものの、日本では中国の声明を日本化する形で男性の単旋律アカペラによって歌われるようになった。

 

これに伴って、宮廷の儀式用として存続するものの貴族文化である雅楽が頂点を過ぎ、伝承のための寺社の音楽へと転換することになる。田楽・猿楽の発達、平家琵琶などが代表的ではあるものの、寺社の保護下にはあったが民衆が楽しんだりする機会もあったので階級的色彩が薄かったとされている。

この後室町時代ごろになると武士の音楽の時代に入る。

いつかのブログにも書いたけど観阿弥世阿弥の台頭によって能狂言が大成されることになって、平曲もさらなる発展を遂げることに。

marumaru-game.hatenablog.com

 

 

近世になると歌舞伎踊りが出雲で人気を博すようになった。これまでに盛んだった平曲は最盛期をすぎ、能の地位が硬くなっていき、浄瑠璃の準備期間になる。またキリスト教音楽も入ってくるがキリスト教自体の弾圧が行われるようになり日本では消滅する。三味線が琉球を通って入ってくるのもこの頃で、のちに大衆音楽の中の主流になっていくことに。

 

だんだん江戸試合に入ると庶民の文化が発展し文化の対象が変化し始める。また、鎖国によって自国の文化が発展していくことになった。この頃貴族は雅楽、武士は能、庶民は三味線・箏に親しんだ。音楽家の中にも階級を強く意識するようになり、演奏者の序列や芸の秘伝が厳格に守られるようにもなる。芸術家の排他的観念が強く弟子入りして師匠の楽曲の正確な暗譜のみだったことが挙げられる。

一方この頃の西洋というとバッハ・ヘンデルの時代でオペラやフーガの発生発展を経てモーツァルト・ベートーベンによって古典派が大成されます。さらに、シューベルトらによってロマン派が開花して行くため、日本が一極集中型に対して西洋は改革期であったと言える。

 

明治維新になると鎖国が解かれ、西洋音楽が一気に入ってくる時代になる。

とはいえ在来音楽と外来音楽が並存した状態で、決定的に在来音楽に影響を与えたものはありませんでした。どちらかというと学校教育の体型の中に音楽の教育も組み込まれたように国民に洋楽を消化できるように普及、教育をしていた時代だった。(もともと武士の教育内容に「風姿花伝」が組み込まれていたことや、寺子屋でも脳の鑑賞がおこ割れていた。)

1879年には音楽取調掛を文部省に設け音楽の調査を行います。その目的は音楽の和洋折衷、その上での日本に似合う音楽の作曲、教育者の育成だった。

西洋ではロマン派の発展、特にスメタナドボルザークなどの国民音楽の発達、またはドビュッシーなどに代表される印象派の発生があった。

滝廉太郎が1900年に「花」、山田耕筰が自作の歌劇を披露することになる。

これらの動向によりもともと邦楽演奏者の特権がなくなって行くものの、お高い存在だったものが一般に開放されていくことになった。

 

近代後期には第一次世界大戦第二次世界大戦に突入。この頃になって洋楽の消化が始まり、在来音楽は顧みられなった。そのため国民音楽が作られることはなかった。もちろん芸術に関しても統制が厳しくなっていくため、大衆音楽は栄えるもののそれ以上の発展はなかったとのこと。

大正時代には宮城道雄が活躍し、洋楽と伝統音楽を融合し、再生しようとする新日本音楽を作って行きます。戦争が激しくなっていくにつれて音楽を学ぶこと自体が贅沢であると言われ、さらには外国の文化を蔑み自国の文化を崇めるような風潮があった中でも音楽についてはほぼ洋楽で、日本の音楽が顧みられることはなかった。

先ほど述べた通り盲目的な自国文化への崇拝の反動で、今度は伝統文化は蔑まれるようになり、少しずつ洋楽の復興、のちに伝統文化の再認識が行われるようになりる。

 

 

 で、雅楽についてちょっとフォーカスしたので書いておく。

もともとは俗楽に対して雅正の楽という意味合いがあったとのこと。

雅楽には,日本固有の古楽に基づく神楽・倭(やまと)舞・東游(あずまあそび)・久米(くめ)舞・五節舞(ごせちのまい)などの国風歌舞(くにぶりのうたまい)のほかに,外来音楽を基として作られた大陸系の楽舞すなわち中国系の唐楽と朝鮮系の高麗楽(こまがく),そして,これらの合奏曲の影響で平安時代に作られた催馬楽(さいばら)と朗詠の歌物とがある。大まかには平安時代の「楽制改革」によってこの体系が整えられることになる。

国風歌舞が歌曲中心なのに対して外来曲は器楽曲が中心で、現存する器楽合奏としては世界最古とのこと。

演奏形式は,器楽を演奏する管絃と舞を主とする舞楽と声楽を主とする歌謡とに分かれている。

管弦は特に陰陽五行説とも結びついており、呂(壱越調いちこつちょう・双調そうじょう・太食調たいしきちょう)は陽(長調に近い)、律(平調ひょうじょう・黄鐘調おうしきちょう・盤渉調ばんしきちょう)は陰(短調に近い)と結びいており、五行は音の高さと結びついている。

なお、「時の声」という言葉があり、季節によって調子を変えた。「龍鳴抄」には春:双調、夏:黄鐘調、秋:平調、冬:盤渉調という記述がある。

一度戦国時代の乱世によって衰退するものの、また豊臣秀吉などによって再興される。ウエイトは次第に洋楽になっていくが明治以降にも皇居の東京移動に合わせて雅楽局が設けられ、明治選定譜として曲目や奏法が整理され、現在も無形重要文化財に指定される雅楽を保持していて、最も由緒・歴史ある宮内庁式部職楽部は、皇室の行事の際演奏したり、外国訪問の際に演奏する。

使用される楽器には,日本古来の神楽笛・和琴などのほかに,外来の笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・笛などの管楽器と,箏(そう)・琵琶(びわ)などの絃楽器と,鞨鼓(かっこ)・太鼓(たいこ)・鉦鼓(しょうこ)・三鼓(さんこ)などの打楽器がある。

舞台にもこだわりが見られ、敷舞台、高舞台、浮舞台など様々な形態があり、貴人は南を向くという考え方(中国の考えで、日のさす方向が右であり、光に背く北よりも南の方が優位であることに基づく。相撲でも東から太陽が昇るため東の方が優位とのこと)から本来は北向きにセッティングする。また、右左で左舞、右舞という呼び方をされて、入退場は右左別れて決められた順序で出入りする。

 

 

 

ついでに幕末維新、明治大正期の音楽も。

明治時代西洋音楽と在来音楽は日本人の排他主義的思想からかそれぞれの並存する形で存在したが、井沢修二や北原季晴の動向を見ると和洋折衷音楽である「大日本音楽」の普及に尽力したことが見れる。

しかし当時も当時以降も邪道派であるという見解は専門家の間で強く、強いて言えば大衆への受けが良かったという評価が残っている。

この排他的思想はここだけに止まるものではなく、西洋音楽の普及は軍国化の為に意識的に普及されることになるが、現在の東京芸大の発端・当時は文化庁に内包された音楽取調掛では浄瑠璃富本節家元豊前太夫が学生となるも、浄瑠璃の感覚が抜けず辞めていきました。当時の関係者は浄瑠璃の掛け声を入れてしまう癖について奇習だと記している。

なお、軍国化については、西洋音楽は既存の音楽では雅楽、能、三味線等それぞれ親しむ階級・流派があり、国民全体をまとめられるような音楽が存在しなかった。そこでまだなんのイメージも付属していない洋楽によって国民をまとめようという社会的背景があったと考えられる。

邪道という評判はありながらも公的機関である音楽取調掛を創設する伊沢修二は「東西二洋ノ音楽ヲ折衷」することを強く浸透させようとした。

この機関主催のコンサートでは本邦雅俗及西洋管弦楽器ヲ悉ク混用」した曲や、ピアノがその場にありながらも琴での伴奏を披露しており取り組みは実践的であったと言える。

北村季晴も医学を伝えたヘボンひいてはキリスト教と接点があった為、元音楽取調掛であった東京音楽学校に入学する。ここで伊沢修二の目標そのままのような教育を受けた。のちに鹿嶋清兵衛と出会い小編成ではあるが、大日本音楽倶楽部を結成する。この後も歌舞伎座の公演で和洋合奏をし話題になった。

 

ちなみに意識的な和洋合奏より以前から、実は管楽器などよりも日本に受容されていたのはスネアドラムで、西洋式軍隊の導入によって行進にとどまらない集団行動の合図を勤めることになっていた。

長崎では江戸時代からすでにオランダ人によって本格的に手ほどきを受けており、藩校や太鼓に馴染みのある能学師に習得させるといったケースもあった。

 

今でも地方には幕末維新期から始まった山国大軍楽保存会が戊辰戦争以降当時の譜面を用いて演奏していたり、静岡の浜松まつりでラッパが用いられていたり、諏訪大社御柱祭でラッパを信号ラッパ的用途で使ったりする。なお、明治期以降消防組がラッパを常備していたりとここでのラッパは軍隊ではなく消防隊が起源ではないかと推測されている。

 

また、奈良の公園にいる鹿を招集するために用いられるのはホルンである。もともとはラッパであったと言われており、もともと娯楽の狩猟の際にホルンを使用し、それが軍楽の中でラッパになって、楽器が日本に入ってくると鹿にも適用された。

 

このような西洋音楽の受容および国内での強力な供給の裏には植民地化への抵抗が挙げられる。植民地化した諸地域では軍楽化は受動的に取り込まれたが、日本では受動的に受け入れられて行った。慶応年代にはスネアドラムと篠笛と行ったような和洋折衷型の鼓笛隊も編成された。

戊辰戦争以降本格的なブラスバンドが編成されるようになると民間に和洋折衷の鼓笛隊が解き放たれた。さらに、兵役が終わった場合退役するため、そこで民間バンドに転換することもあった。このような流れで民間バンドはどんどん作られていくことになった。やがて民間バンドは次第に楽隊と呼ばれていくことになる。

 

 

 

 

ひとまずこんな感じかなあ〜、でも明治の音楽はもうちょっと調べたい!