marumaru_game’s blog

プログラミングとお絵描きの進捗を報告するためのブログです。ミニマム週一であげたい。

そろそろ本格的に

やっと学校が終わって自分のやりたい事ができそう。

とりあえず当分ゼミがないから内容どうしようかなあと思っているところ。

今回はまた気になったゲームについて書こうかな。

来週こそはプログラミングを…(遠い目)

 

 

今回書きたいのは「誰ソ彼ホテル」。

「誰ソ彼ホテル」の画像検索結果

 

今まで「アリスの精神裁判」「四ツ目神」「監獄少年」とヒット作を飛ばしてるSEECっていうところから。

まあ、このラインナップって、知ってる人からすると下敷きってわけじゃないけどオマージュ作品があるんじゃない?笑…なんて思わんでもない親しみあるテーマだったりする。結構ファンタジー題材。

最近はコラボカフェ、グッズ販売、LINEスタンプ販売、キャラソンCD販売などなど今までのアプリよりも結構事業展開が見られるかなと思っている。

ツイッターは誰ソ彼ホテル自体のアカウントで5万フォローを突破。

こっちも結構ツイッターの反応率はいいかなと。結構浮き沈みは激しいけど最近の5万フォロワーありがとうツイートは1万いいね超えてるくらい。

キャラソン(主題歌)はユーチューブにもストーリー紹介と一緒に上がってて、23万回再生。

 

youtu.be

 

GooglePlayの評価は4.6で、Appstoreだと4.8だから結構高いかなと。

今度新しく出るアプリは「紡ロジック」。上記四つの他にも脱出ノベル系のアプリは出してるけど、それとは絵柄も違うしキャラクターも多くてかなり雰囲気も違うから気になる。

 

このゲームは、一回通り魔に殺された主人公が天国へも地獄へもいけない人たちのための「誰ソ彼ホテル」で働きながら、自分が何故、誰に殺されたかを思い出すゲーム。

 終盤まで出てくる主要なキャラクターは7人で、全体では11人。

脱出難易度はかなり易しいと思う。誰でもできる感じ。

主にできることは、脱出付きのノベル、ゲーム内で使えるコインやチケットの出てくるガチャガチャ、レベルアップするとキャラの服装も変わって行く育成ゲームみたいなやつ。後スチル見返したり課金すれば特別ストーリーが見れたりする。

メインストーリーは単純にストーリー読む回と探索パート回にわかれてて、探索は他のキャラの発言を聴きながら基本アイテム集めと記号文字探しと入力。

 

結構序盤は主人公が客の世話するから笑えるところも多いんだけど、後半になると殺人鬼のせいでこのイラストからは想像つかないシリアス展開になって行くのが個人的に好き。

分岐によってはちょっと過激なエンドもあるので安心できない感じ。

あと、ホテルの個室は客の心をそのまま表したものだから、今まですっごい綺麗だったのに、一アクションあった後の部屋が全く違う人のなんじゃないかって部屋になってたりとかして雲行きが怪しくなるのが目に見えてわかりやすい。

あえてただナレーションとかセリフでいうんじゃなくて、ゲームのいいところを利用して視覚的にするとか非言語化して違いを見せる事ができる設定がいいなって思った。

 

あとみんな意外と補正っていうかお話のキャラならあるあるの反応がないのが結構好きだったかなあ。

主人公がやらかしちゃってごめんって謝っても簡単にいいよって言わないキャラとか、自分の楽しみのために超やばいアイテムの存在を主人公に教えちゃうキャラとか。

キャラクターのゲスい部分を割とマイルドにせずそのまま出した印象。

 

ただやっぱりちょっとって個人的に思ったのはサクサク読めないのと、排出率の割にガチャが存在してるところ。

一応コインとチケットが出るガチャはあるけどコインは雀の涙程度でガチャはチケットはかなりレアなんじゃないかなって思う。広告で代用ってことはしないから他に頼る方法がないのは確か。

一日5個分のストーリが読めるようになってて、課金するか地道にコツコツ待つしかないけど、ストーリ自体は結構長いから歯切れが悪いこともしばしば。

他にも局所局所でミッションがあってそっちもクリアするために課金するかポチポチ育成ゲームみたいなのするかしなきゃいけないから、一気に読みたい人は課金不可避かなと。

まあ、声あてるの初めてだったりとか色々資金増やすところも多かっただろうから仕方ないし、良い物にはお金を使いたいって考えも良いんだけど。

 

 

あとはそろそろイラストも描きたいなあ。 

日本の音楽史

本当はユニティについて書こうと思ったんだけどなんせ夏休み前のテスト期間だからやることが山積みで 余裕がないので今期最後のゼミの内容について書こうかと。

前回の分、補足しなきゃー!!

イラストも全然かけてない…(;o;)

 

…まあ気を取り直して日本の音楽史について触れようかなと。

 

まずは軽く通史的に。

 

縄文弥生あたりのそれ以前の頃は西洋東洋ともに声楽が中心だった。遺跡などから楽器や音楽がうかがわれるものの、推測するには難しいとのこと。

 

そのあとだんだん中国との交易が盛んになって遣隋使・遣唐使が行き来する間に仏教などと一緒に音楽も入ってくることに。

神楽、東遊、倭歌、五節舞、久米舞などの日本古来のものと、高麗舞、唐楽などの外来系音楽がそれぞれすることになり、催馬楽などの既存音楽と外来音楽のミックス型が誕生。

この後、これらの音楽を取り仕切るために宮廷に雅楽寮ができることになる。

西洋では教会音楽が発達していた。でも、カノッサの屈辱なんてのが有名だけど当時政治よりも宗教にかなりのウエイトがあったため宮廷での保護が不要で自力で発展していくことに。

この後遣唐使が廃止になるので文学だけではなく音楽もセオリー通り国内で発展をして行った。

楽制改革によって古来の音楽と外来音楽(中国系左舞・朝鮮系右舞)の整理とアレンジ、統合可能な楽器の整理が行われることになり、中国から入ってきた音楽の理論は膨大だったためにこれを簡素化する取り組み(音階を和名にするなど)も行われることになった。

この頃日本でも、もともと貴族の権威の象徴として扱われてきた音楽が今度は宗教音楽として発達するようになる。西洋では合唱形式が盛んだったものの、日本では中国の声明を日本化する形で男性の単旋律アカペラによって歌われるようになった。

 

これに伴って、宮廷の儀式用として存続するものの貴族文化である雅楽が頂点を過ぎ、伝承のための寺社の音楽へと転換することになる。田楽・猿楽の発達、平家琵琶などが代表的ではあるものの、寺社の保護下にはあったが民衆が楽しんだりする機会もあったので階級的色彩が薄かったとされている。

この後室町時代ごろになると武士の音楽の時代に入る。

いつかのブログにも書いたけど観阿弥世阿弥の台頭によって能狂言が大成されることになって、平曲もさらなる発展を遂げることに。

marumaru-game.hatenablog.com

 

 

近世になると歌舞伎踊りが出雲で人気を博すようになった。これまでに盛んだった平曲は最盛期をすぎ、能の地位が硬くなっていき、浄瑠璃の準備期間になる。またキリスト教音楽も入ってくるがキリスト教自体の弾圧が行われるようになり日本では消滅する。三味線が琉球を通って入ってくるのもこの頃で、のちに大衆音楽の中の主流になっていくことに。

 

だんだん江戸試合に入ると庶民の文化が発展し文化の対象が変化し始める。また、鎖国によって自国の文化が発展していくことになった。この頃貴族は雅楽、武士は能、庶民は三味線・箏に親しんだ。音楽家の中にも階級を強く意識するようになり、演奏者の序列や芸の秘伝が厳格に守られるようにもなる。芸術家の排他的観念が強く弟子入りして師匠の楽曲の正確な暗譜のみだったことが挙げられる。

一方この頃の西洋というとバッハ・ヘンデルの時代でオペラやフーガの発生発展を経てモーツァルト・ベートーベンによって古典派が大成されます。さらに、シューベルトらによってロマン派が開花して行くため、日本が一極集中型に対して西洋は改革期であったと言える。

 

明治維新になると鎖国が解かれ、西洋音楽が一気に入ってくる時代になる。

とはいえ在来音楽と外来音楽が並存した状態で、決定的に在来音楽に影響を与えたものはありませんでした。どちらかというと学校教育の体型の中に音楽の教育も組み込まれたように国民に洋楽を消化できるように普及、教育をしていた時代だった。(もともと武士の教育内容に「風姿花伝」が組み込まれていたことや、寺子屋でも脳の鑑賞がおこ割れていた。)

1879年には音楽取調掛を文部省に設け音楽の調査を行います。その目的は音楽の和洋折衷、その上での日本に似合う音楽の作曲、教育者の育成だった。

西洋ではロマン派の発展、特にスメタナドボルザークなどの国民音楽の発達、またはドビュッシーなどに代表される印象派の発生があった。

滝廉太郎が1900年に「花」、山田耕筰が自作の歌劇を披露することになる。

これらの動向によりもともと邦楽演奏者の特権がなくなって行くものの、お高い存在だったものが一般に開放されていくことになった。

 

近代後期には第一次世界大戦第二次世界大戦に突入。この頃になって洋楽の消化が始まり、在来音楽は顧みられなった。そのため国民音楽が作られることはなかった。もちろん芸術に関しても統制が厳しくなっていくため、大衆音楽は栄えるもののそれ以上の発展はなかったとのこと。

大正時代には宮城道雄が活躍し、洋楽と伝統音楽を融合し、再生しようとする新日本音楽を作って行きます。戦争が激しくなっていくにつれて音楽を学ぶこと自体が贅沢であると言われ、さらには外国の文化を蔑み自国の文化を崇めるような風潮があった中でも音楽についてはほぼ洋楽で、日本の音楽が顧みられることはなかった。

先ほど述べた通り盲目的な自国文化への崇拝の反動で、今度は伝統文化は蔑まれるようになり、少しずつ洋楽の復興、のちに伝統文化の再認識が行われるようになりる。

 

 

 で、雅楽についてちょっとフォーカスしたので書いておく。

もともとは俗楽に対して雅正の楽という意味合いがあったとのこと。

雅楽には,日本固有の古楽に基づく神楽・倭(やまと)舞・東游(あずまあそび)・久米(くめ)舞・五節舞(ごせちのまい)などの国風歌舞(くにぶりのうたまい)のほかに,外来音楽を基として作られた大陸系の楽舞すなわち中国系の唐楽と朝鮮系の高麗楽(こまがく),そして,これらの合奏曲の影響で平安時代に作られた催馬楽(さいばら)と朗詠の歌物とがある。大まかには平安時代の「楽制改革」によってこの体系が整えられることになる。

国風歌舞が歌曲中心なのに対して外来曲は器楽曲が中心で、現存する器楽合奏としては世界最古とのこと。

演奏形式は,器楽を演奏する管絃と舞を主とする舞楽と声楽を主とする歌謡とに分かれている。

管弦は特に陰陽五行説とも結びついており、呂(壱越調いちこつちょう・双調そうじょう・太食調たいしきちょう)は陽(長調に近い)、律(平調ひょうじょう・黄鐘調おうしきちょう・盤渉調ばんしきちょう)は陰(短調に近い)と結びいており、五行は音の高さと結びついている。

なお、「時の声」という言葉があり、季節によって調子を変えた。「龍鳴抄」には春:双調、夏:黄鐘調、秋:平調、冬:盤渉調という記述がある。

一度戦国時代の乱世によって衰退するものの、また豊臣秀吉などによって再興される。ウエイトは次第に洋楽になっていくが明治以降にも皇居の東京移動に合わせて雅楽局が設けられ、明治選定譜として曲目や奏法が整理され、現在も無形重要文化財に指定される雅楽を保持していて、最も由緒・歴史ある宮内庁式部職楽部は、皇室の行事の際演奏したり、外国訪問の際に演奏する。

使用される楽器には,日本古来の神楽笛・和琴などのほかに,外来の笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・笛などの管楽器と,箏(そう)・琵琶(びわ)などの絃楽器と,鞨鼓(かっこ)・太鼓(たいこ)・鉦鼓(しょうこ)・三鼓(さんこ)などの打楽器がある。

舞台にもこだわりが見られ、敷舞台、高舞台、浮舞台など様々な形態があり、貴人は南を向くという考え方(中国の考えで、日のさす方向が右であり、光に背く北よりも南の方が優位であることに基づく。相撲でも東から太陽が昇るため東の方が優位とのこと)から本来は北向きにセッティングする。また、右左で左舞、右舞という呼び方をされて、入退場は右左別れて決められた順序で出入りする。

 

 

 

ついでに幕末維新、明治大正期の音楽も。

明治時代西洋音楽と在来音楽は日本人の排他主義的思想からかそれぞれの並存する形で存在したが、井沢修二や北原季晴の動向を見ると和洋折衷音楽である「大日本音楽」の普及に尽力したことが見れる。

しかし当時も当時以降も邪道派であるという見解は専門家の間で強く、強いて言えば大衆への受けが良かったという評価が残っている。

この排他的思想はここだけに止まるものではなく、西洋音楽の普及は軍国化の為に意識的に普及されることになるが、現在の東京芸大の発端・当時は文化庁に内包された音楽取調掛では浄瑠璃富本節家元豊前太夫が学生となるも、浄瑠璃の感覚が抜けず辞めていきました。当時の関係者は浄瑠璃の掛け声を入れてしまう癖について奇習だと記している。

なお、軍国化については、西洋音楽は既存の音楽では雅楽、能、三味線等それぞれ親しむ階級・流派があり、国民全体をまとめられるような音楽が存在しなかった。そこでまだなんのイメージも付属していない洋楽によって国民をまとめようという社会的背景があったと考えられる。

邪道という評判はありながらも公的機関である音楽取調掛を創設する伊沢修二は「東西二洋ノ音楽ヲ折衷」することを強く浸透させようとした。

この機関主催のコンサートでは本邦雅俗及西洋管弦楽器ヲ悉ク混用」した曲や、ピアノがその場にありながらも琴での伴奏を披露しており取り組みは実践的であったと言える。

北村季晴も医学を伝えたヘボンひいてはキリスト教と接点があった為、元音楽取調掛であった東京音楽学校に入学する。ここで伊沢修二の目標そのままのような教育を受けた。のちに鹿嶋清兵衛と出会い小編成ではあるが、大日本音楽倶楽部を結成する。この後も歌舞伎座の公演で和洋合奏をし話題になった。

 

ちなみに意識的な和洋合奏より以前から、実は管楽器などよりも日本に受容されていたのはスネアドラムで、西洋式軍隊の導入によって行進にとどまらない集団行動の合図を勤めることになっていた。

長崎では江戸時代からすでにオランダ人によって本格的に手ほどきを受けており、藩校や太鼓に馴染みのある能学師に習得させるといったケースもあった。

 

今でも地方には幕末維新期から始まった山国大軍楽保存会が戊辰戦争以降当時の譜面を用いて演奏していたり、静岡の浜松まつりでラッパが用いられていたり、諏訪大社御柱祭でラッパを信号ラッパ的用途で使ったりする。なお、明治期以降消防組がラッパを常備していたりとここでのラッパは軍隊ではなく消防隊が起源ではないかと推測されている。

 

また、奈良の公園にいる鹿を招集するために用いられるのはホルンである。もともとはラッパであったと言われており、もともと娯楽の狩猟の際にホルンを使用し、それが軍楽の中でラッパになって、楽器が日本に入ってくると鹿にも適用された。

 

このような西洋音楽の受容および国内での強力な供給の裏には植民地化への抵抗が挙げられる。植民地化した諸地域では軍楽化は受動的に取り込まれたが、日本では受動的に受け入れられて行った。慶応年代にはスネアドラムと篠笛と行ったような和洋折衷型の鼓笛隊も編成された。

戊辰戦争以降本格的なブラスバンドが編成されるようになると民間に和洋折衷の鼓笛隊が解き放たれた。さらに、兵役が終わった場合退役するため、そこで民間バンドに転換することもあった。このような流れで民間バンドはどんどん作られていくことになった。やがて民間バンドは次第に楽隊と呼ばれていくことになる。

 

 

 

 

ひとまずこんな感じかなあ〜、でも明治の音楽はもうちょっと調べたい!

初歩中の初歩の人のためのUnity勉強その①!!

夏休みに入って本格的にプログラミング、ゲーム開発の勉強をしようと思ったんだけど夏休み入って一から勉強すると余分に時間食うなって思ったのでブログの内容をUNITYにしてしまえばいいんじゃないかと思いちょっと今から書いて行こうかなと。

少なくとも今回は今より前に若干かじっていた分のおさらいになるかな。

ゼミの内容は後ほど簡単に触れられればいいかな。最近校外学習が多いからいうほどの量でもないし。

というわけで超導入部分を始め〜。

 

というかそもそもUNITYって何がすごいのって話なんだけど、大きな魅力はアンドロイド、iosどっちも開発できて、2Dも3Dも対応しているってことかな。

ただし言語はC#でUNITYのための言語になっている。

 

それじゃまずはユニティのダウンロードから。

store.unity.com

性能が違うので合わせてダウンロードすればいいとは思うけど無料なのは{PERSONAL}だけなので注意。

 

f:id:marumaru_game:20180711194851p:plain

規約に同意して{HUB}ではなく{インストーラー}をダウンロード後{UNITY DOWNLOAD ASSISTANT}をクリック。

 

f:id:marumaru_game:20180711194710p:plain

 

開いたら規約同意みたいなのを済ませて、{COMPONENTS}のところに来たら、自分のゲームをアンドロイド、アップル、ウェブとかどこに合わせて出したいかに合わせてインストール。

まあ大方今挙げた3つに当てはまるところを選んどけばいいんじゃないかと。

あとは一応UNITY自体もプログラミング用のシステムを用意しているけど、VISUAL STUDIOとか一緒にダウンロードできるのでしておいてもいいかも。

ちなみにVISUAL STUDIOはまた独立したプログラミング打ち込むためのアプリ。

で、進行に沿ってインストール。

以上!

 

新しいプロジェクトを立ち上げる時は、

まず会員登録が必要なのでアカウントを立ち上げてもらって、

右上の青文字になってるNEWをクリック!

 

f:id:marumaru_game:20180711202522p:plain

 

ちなみに、プロジェクトを試しに作りすぎちゃった〜!なんて時はNEWの横のOPEN開いて、いらないファイル消せば消えてくれる!

 

f:id:marumaru_game:20180711202621p:plain

LOCATIONはプロジェクトファイルの保存場所になるので好きに選んでいただいて、ORGANIZATIONはあんまり気にしなくても大丈夫かも。

あとは名前と2D、3D決めればOK!

 

ちなみに開くとこんな画面。

 

f:id:marumaru_game:20180711205610p:plain

 よく見るとタブがあると思うんだけど、それがその場所の名称として使われている。

 

  • HIERARCHYウィンドウ 

→ゲームオブジェクトの一覧表示

 

  • INSPECTORウィンドウ

→ゲームオブジェクトの設定確認と変更

 

  • PROJECTウィンドウ

→プロジェクトの各種ファイル表示(スクリプトなんかはここから開く)

 

  • CONSOLEウィンドウ

→エラーメッセージやスクリプトのビルト内容を表示

 

  • SCENEビュー・GAMEビュー

→オブジェクト配置の編集画面/再生ボタンを押すと情報分のゲームを再生

 

→プロジェクト名表示、エディタツールボタン・動作テスト実行ボタンなどの表示部分

 

  • ステータスバー

→CONSOLEウィンドウの下位互換ただし見やすい

 

 

今日はひとまずここまで!追記あればするか新しく来週更新する!

 

 

f:id:marumaru_game:20180711190922j:plainあと今週のゼミは浅草寺ほおずき市に行って来た〜!

ほおずきって酸漿って書くの思ってたより難しくてびっくり!

基本的には左みたいに鉢ごと買うのがほとんどで、どこの店も一個あたり2500円。奥の方で一軒ぐらいほおずき一個で100円とかも見つけたけど。

酸漿って調べたらジャムとかにして食べられるらしい。

あと乾燥させて飾ったりとか笛にしたりとか?

意外と実用的な使い方できるんだっていう感想。

 

ほおずき市は、その日に参拝すると四万六千日分のご利益があるって言われた「功徳日」を元に開催されるとされている。

元々観音菩薩の縁日として18日に行われてたけど我先にって人が続出した結果9・10日になったのだとか。

ただ、元々ほおずきを売っていたのは浅草寺じゃなくって愛宕神社だったらしい。ほおずきは昔薬用として使われていて、それに反響があったこと、四万六千年の考えに合致することから浅草寺もほおずきを売り始めたとのこと。

 

ちなみに屋台とかも出てた!

前には隅田川の花火大会をここで見たからすごい懐かしかったなあ〜!

 

 

 

 

平泉旅行行ったどー!

今回は前回の調べ学習に引き続き平泉旅行について書こうかと。

 

今回行ったのは毛越寺無量光院跡観自在王院跡、中尊寺猊鼻渓達谷窟義経堂。

お昼は死ぬほど天気良くって顔真っ赤になったのに夕立すごくて猊鼻渓の船に乗ってたら土砂降りに見舞われる始末…。のに降りたらすぐ止むっていう。

30度は平気で越してて超汗かいたの東北ってこんな暑いんだってめっちゃ思った。

後虫が死ぬほどいてブヨにやられてきた…。

あいつ普通の虫除けじゃ効かないとか手強すぎない⁈他なんも刺されてないのになんなんだよもう…。まあすっごいのどかだったからわからなくもないけどさあ…。ポイズンリムーバーなんて持ち合わせてないよとほほ…。

 

ま、本題に入るとして、やっぱり一番すごかったのは中尊寺金色堂かなあ。

 

中尊寺金色堂 中尊寺金色堂は、国宝1号としても有名だ。 日本国内の世界遺産登録が増えている中、

 

少なくとも全体の規模はどう考えても中尊寺がトップだし、金色堂がどこをどう見てもキラッキラなの。ただ、写真撮影が不可だからフォルダには収められなかったんだけれども。

建造物丸々ガラスの内側に入れてるって滅多に見れたもんじゃないよね。

ここに関してはもう百聞一見にしかずだと思う。

ごちゃごちゃいうより自分の目で奥州藤原氏一代清衡がどれだけすごかったのかを目の当たりにしてきた方が話は早い。

財力と技術力のダブルパンチでもう細かいところ見出したらきりない。

とは言ってもご本尊が薬師如来っていうのはやっぱり開祖一緒だしお決まり感はあるよね。

あとこの下に奥州藤原氏4代が眠っているっていうのは胸熱かなと。

そら国宝にもなりますがな。

 

後、お蕎麦が超美味しくて。そもそも平泉一帯でそばのお店が多くて、駅前にも芭蕉館ていうわんこそばで有名なお店があったりするんだけどそこと、かんざん亭っていう中尊寺の中のご飯屋さんで食べてきて超美味しかったな〜

私は野菜そばととろろそばを食べてきたんだけど

 

f:id:marumaru_game:20180704191019j:plain

 

わさびが程よく効いて美味しくて、中尊寺の方なんかは結構窓が大きくて眺めがめっちゃ良かったからそこもオススメかも

夏だから青々とした山って感じだったけど季節が違ったらこれはこれでいいんだろうなあ!

 

後、せっかく調べた毛越寺で一番記憶に残っているのはあやめ祭りの花菖蒲園!

f:id:marumaru_game:20180704191545j:plain

花菖蒲園って名前だけどあやめ祭り??菖蒲は??て思ってたんだけどどっちも生えてた笑

ぱっと見全然わかんないけど花弁の数とか葉っぱの筋の数とかちょいちょい違うらしい。敷地はここだけじゃなくてこの写真の反対側にもたくさん咲いててすっごい鮮やかだった。

ほんと何回見ても天気よすぎる…。笑

 

猊鼻渓も超綺麗だった!

船に乗って往復できるところがあって乗ってきたけど最初の方はなすすべなくかんかん照りに晒され続けて汗ダラダラ。゚( ゚^∀^゚)゚。 

とはいえ船頭さんがめっちゃ饒舌で面白かったのでなんとかしのいでた。

他の船の船頭さんは歌とか歌ってたりして個性豊かだったなあ

韓国とか中国とかからもロケ地としてくることもあるほどの雰囲気ある場所で、日本でいうと最近はSHINOBIが有名なのかな。

夫婦岩があったりかもがいたりいろんな見所があったな。

あとは朝だったら岩に太陽の光が反射したのとかが見れたらしいんだけど見たかった〜

写真とかムービーとかとったけどなんか出来栄え微妙なので割愛。笑

 

他にも書こうと思えばまだまだあるしかなり移動も多くてわりとヘロヘロだったけど充実してたなあ。

今度は夏休みに大阪に行くから楽しみ!

 

 

 

 

無量光院跡行くぞー!

今週は先週の毛越寺のに加えてもう一つ行くところ、無量光院跡について簡単に調べたいと思う。

無量光院も岩手県にあるお寺で、

初代清衡の中尊寺、2代目基衡の毛越寺を引き継ぎ、毛越寺の発展を完成させた奥州藤原三代当主秀衡が建てたもの。

これまでの建物に習ったその豪華さは平等院に基づく大規模な浄土式庭園を持っているほどのものだった。というのも、先代の頃から京都を超える都を作ろうとしていた。

毛越寺にも言及してたけど、「吾妻鏡」は無量光院にも言及している。

本当は建造物の背後の金鶏山に日が沈むように設計されていて、浄土を表す設計だった。浄土式建造物としては最高傑作だったとのこと。

確かに山バックに夕日沈みながら最高傑作の寺眺められたら最高だよなあ…( ´∀`)

 

ちなみに金鶏山も平泉の構成要素として世界遺産登録されていて、おくのほそ道の風景地として特別名勝にも指定されている。

名前の起源は山頂に黄金のオスメス一対の鶏を埋めたことらしい。

夢しかねえなあ…

あとは山頂に経塚がある。(経典が埋まっている)

登り口には源義経の妻子のお墓があるとか。

というか平泉の人たち頼朝から逃げてきた義経に優しすぎない??

毛越寺でやる春の藤原祭りも3日目の義経東下りが一番見所っていうし最近男性俳優起用してんの初めて知ったもん!

高杉真宙とか吉沢亮とか今をトキメキ過ぎじゃない??

正直、個人的には廃れていくより少しでも世間の日の目を浴びるために努力してるのいいと思う(誰目線)

逆に女性タレント起用してるお寺とかあるのかな〜、気になる〜

 

建造物は炎上しちゃってて残ってないけどかなり大規模なものだったみたい。今だと特別史跡に指定されている。

ちなみに、毛越寺特別名勝特別史跡どっちも登録されているけど、特別名勝はすこく綺麗な景観を持っている土地で、特別史跡は遺跡などで学術的価値の高いもの。どちらもその中でも重要なものに「特別」がつく。

あとは平泉の構成要素として世界遺産登録もされている。

と言っても今は池泉・中島・礎石だけが残っている。

一応復元図は探せば見れるから一回検索して見てもいいかも。

夕暮れ時の復元像もあったりしてめっちゃ綺麗。でも跡地だけでもめっちゃ綺麗だからどうか晴れてくれーーーー!。゚( ゚^∀^゚)゚。 

 

最近だと池の拡張工事が終わったって記事が多いかなあ。

あとは無量光院跡の発掘調査の結果元から宗教施設があった可能性が高いって記事も出てるみたいだね。

アクセスとしては平泉駅から徒歩10分程度。 

 

楽しみ楽しみ!

毛越寺観光するぞ!

 今度岩手県一ノ関駅を拠点にプチ観光しに行くので事前学習をまとめようかと思う。

私は東京住みなので交通機関は新幹線と夜行バスを使って行く。

新幹線は直通で学生割引使って、東京〜一関までで自由席10800円。夜行バスは8000円くらいで直通。

宿代も一泊朝食付きで9000円くらいかな。

だから総額40000円くらいで行けそうかなー

 

ちなみに一ノ関市をちょっとまとめたい。

岩手県の南端に位置していてそれなりに大きめ。沖縄県本土とおんなじくらいかな?ほんとは最近合併されたところみたい。

人口は十二万人。

一ノ関の名前の由来は関所とか砦とかが由来になってるみたいだけどどれも昔の日本の歴史に絡んでそうで面白そう。

一番主要なところでいうと伊達政宗の活動地域にかぶってたみたい。

有名な食べ物特に餅。他にも蕎麦とか団子とか粉物が多いかな。東北には割とよく見られる感じかなと思いつつ。郭公だんごとかもそうだよね。

それでいうと「芽吹き屋」っていうカフェなんかは検索上位に出てくるかな。美味しそう・・・。餅って言ってもいろんな種類があって御膳のセットになってたりするから見栄えも良かったり。

他にも舞草刀(日本刀の原型)とか田村の梅(まんじゅう)とかカニとか牛とかせんべいとか探せば出てきそう。

有名人で私が知ってたのは大槻玄沢かな笑

「解体新書」書いた杉田玄白前野良沢から名前もらった学者さん笑

 観光は厳美渓とか渓がいっぱいあるかな。

あとは幽玄洞とか宮沢賢治にゆかりのある場所がいくつかあったり。

 

中尊寺とか今回取り上げる毛越寺とか無量光院とかお寺もあるよ。ここらへんは世界遺産だったりもする。

平泉は浄土思想の地って言われている。というのも、源氏と幾度か戦をしてて(決局最後は負けて泰衡(奥州藤原氏最後の当主)は晒し首にされちゃうんだけど)一代目藤原清衡は戦死者を弔いたい、それで平和な世界になってほしいという思いがあったみたいなのね。それで中尊寺は建てられた。そこからその意思をついだ子供たち、基衡が毛越寺を、秀衡が無量光院を作ったわけね。

だから浄土思想のお寺がいくつもあるってことだ。

 

まあ超簡単にだけど触れたところで本題の毛越寺についてまとめたい。

無量光院は来週まとめようかなあ。

 

毛越寺はもうつうじって読む。もうおつじ、がなまったものなんだって。

世界遺産に登録されたのは2011年6月のことで割と最近。

寺の起源だとされている白鹿伝説超かっこいいよ。

慈覚大師(円仁)が東北を巡っているときに霧で前が見えなくなってしまった。

下を見ると白い鹿の毛が落ちていてそれをたどって見ると鹿がうずくまっていた。近づいて触れる前に鹿は消えてしまって、どこからか白髪の老人が現れた。

その人のお告げで作ったのが嘉祥寺、今のお寺の原型だね。

もともと慈覚大師が開祖になってるお寺って他にもたくさんあるみたいだけど、ここでも開山しているのは慈覚大師。

ちなみにこのお寺、1226年ごろに大部分が炎上してて今ある建物はほとんど再建されたものなんだって。

最近炎上炎上って聞くけど久々物理的な意味合いで使った気がする…笑

まあそれはいいとして、毛越寺を作ったのは明治時代までは初代藤原清衡だと思われてたみたいなんだけど、最近ではその子供である基衡が晩年に建立したという方が有力みたいだね。

 

境内の中には浄土境内、臨池伽藍跡が見所みたい。他にも今年は6/20〜7/10であやめ祭りをやってるから花菖蒲園があったり、本堂とは別にさっきの嘉祥寺跡があったり、宝物館があったり。

 

あやめ祭りについてはただ色々見るだけじゃなくて日にちを分けて色々イベントがあるみたいで、本堂内特別拝観とか、子供向けに写生大会があったりするから目的に合わせて楽しめるかもしれない。他にも延年の舞っていうのをやったりするらしい。

延年の舞は重要無形民俗文化財に指定されていて、ここが開山された頃から伝わる伝統的な舞とのこと。一応開祖が円仁てことで、ここだけじゃなく日光の輪王寺とかいくつかのお寺でも継承されているみたい。まあやっぱり一番代表的なところで言ったらこのお寺っぽい。

実は海老蔵が2017年に踊ってて結構検索結果が出てくる。超最近。

 

youtu.be

 

こんな感じの。

これ自体は仏と寺を崇めて無病息災・家内安全を祈るもの。本来これが行われる時期は正月の二十日で、二十日夜祭で行われる舞。そもそも14日から20日にかけて摩多羅神祭っていうのがあって、その最後のイベント。今年のあやめ祭りでもやるらしい。

 

他にも行事はたくさんあって、

元朝詣り(元旦)には境内や池がライトアップされたりとか、

春の藤原祭り奥州藤原氏の栄華を忍んだもので有名だったりとか(春のってつくからには秋にもあるんだけど)、

法灯会では池に灯篭を浮かべたり(めっちゃ綺麗)とか、

曲水の宴っていっ和歌を読む平安時代の遊びを見せたりとか。

他にも細かい行事が季節ごとにあって、あやめ祭りに対しても、秋には萩祭りがあるよ!

常設として他にも、写経、座禅、法話とかの体験もできるとのこと。

加えてお寺の元ずいた安全とかの祈願と、結婚式が出来る模様。

 

ちなみに補足すると、拝観料が大人個人で500円、高校生300円、小学生・中学生100円で団体料金だとちょっとずつ安くなってる。

時間は8:30〜17:00で、場所は最寄りが平泉駅。ここからだと徒歩7分。 

音声ガイドもあるとのことで。

 

というわけでここらにして次回は無量光院!

 

イラストは出来次第随時かな〜。 

 

 

 

見出しが全て?

はてなブログの読者さんてどんな話題が好きなんだろう。日本文化って結構好きって方多いなかなあ?( ´∀`)

それとも別の話題にした時の私の見出しのつけ方がダメなのか…

テレビとかエンタメネタならみんな知ってて興味湧く…?

いずれにせよせっかく何か一つにことを始めたなら色々考えながら書かなくちゃね。読みたいって思えるトピックを選べたらいいなあ。

 

 

今週はゼミで勉強した明治維新期の文化をざっくり載せたものをあげようと思うんだけど、今回の大まかな流れは

 

江戸後期に辞書の導入によって学者が外国語の知識を深めて海外進出を進めるとともに、欧米に見習って国内の整備を進めていったよって話。

 

そんで、福沢諭吉ってもはや近代思想期の擬人化だからちょっと年表出してみようと思う。

  

福沢諭吉の生涯

大阪で生まれるも、父親の死によって大阪から大分に帰る。

兄と長崎にでて蘭学(らんがく)を学ぶ。

福沢諭吉が大阪に出て、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で蘭学を学び、塾長(じゅくちょう)になる。

福沢諭吉が江戸で蘭学(らんがく)の塾を開く。

 ↓

横浜を見物して、外国人にオランダ語で話しかけるが、まったく話が通じないため、 ショックを受ける。これよりこれからは英語が必要であることを知り、英語の勉強を始める。

 ↓

福沢諭吉江戸幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」でアメリカに行く。

 ↓

福沢諭吉江戸幕府の通訳(つうやく)としてヨーロッパ諸国へ行き、その時のこととして「西洋事情(せいようじじょう)」を発行する。西洋の生活を日本人に伝える。

 ↓

福沢諭吉江戸幕府の翻訳御用(ほんやくごよう)になる。

 ↓

福沢諭吉慶応義塾(けいおうぎじゅく 今の慶応義塾大学)を開く。

 ↓

福沢諭吉が「学問のすすめ」を発行する。

学問のすすめ

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず…」ではじまる

340万部以上が売れ、国民の10人に1人が読むというベストセラーになる。

「時事新報(じじしんぽう)」を発行する。

 ↓

病死(68才)

 

ざっくりした人生はこんな感じ。

 で、辞書に関わる部分は二箇所あって、まず一つ目は緒方洪庵適塾にいた頃の話。

彼は60歳の時に「福翁自伝」っていう口語体(というか忙しさを理由に自分の言ったことを他人に書き起こさせた)の自叙伝出していて、「時事新報」っていう自分で創刊した新聞に乗っけているんだけど、そこにも塾生時代のことが載ってるのね。

この本自体歴史的に価値のあるものでもあるから重要で、諭吉さんのパーソナリティーもよくわかる。「門閥制度は親の仇」っていう言葉で有名だったり。お父さんは能力はあったけど身分が高くなかったせいで出世できなかったってところからきてるみたいね。

ちなみに塾生時代もまあ過激というか奇抜というか、

夏の暑さに真っ裸で過ごす塾生たちが、下女を追い払うために真っ裸のまま下女の前に出てたんだけど、福沢諭吉もそんな感じで女の人に呼ばれてでてったら先生の奥さんだったみたいな。

今やったら多分確実に捕まるよね。笑

実際他にも見ていくと鯛茶ずけを食べさせたのを確認した後にフグ茶ずけだって言ってみたりとか曲者感が強い笑

まあそれはさておき、「道富波留麻」っていう蘭和辞書を使って塾生はもう勉強する。もう勉強しすぎて病気になった時初めて枕使ってなかったなって気づくくらい塾生みんな勉強する。

(道富波留麻:オランダ船船長ドゥーフハルマが、母国をフランスに侵略され帰国をおくらせる中書いた。50000語収録。全50巻)

その後も江戸に出てた後、適塾で勉強したオランダ語使って外国人に横浜で話かけるんだけどみんな英語使ってるから全然話通じなくて超ショック。その後英語にシフトチェンジするんだけど、教えてくれる人が周りにいなくてここでも英和辞書を使って勉強を始めるんだよね。これが二つ目かな。

他にもフェートン号事件(イギリスがオランダを出島から締め出した事件)を目の当たりにした幕府が本木正栄に命じて「諳厄利亜語林大成」っていう小英和辞書を作らせたり、

当時唯一幕府の中で英語ができた堀達之助実質日本初の英和辞典「英和対訳袖珍辞書」(えいわたいやくしゅうちんじしょ)を完成させる。

もともと堀達之助はオランダ通詞の家から同じ職業の家庭の養子になったらしいからどう転んでもエリートだよなあ…

村上英俊はオランダ語の化学書で火薬知識を手に入れようとするも、フランス語版がきてしまったからなんとか自分で解読して火薬の知識を身につけた。なおかつ「達理堂」というフランス語塾を開いてそこから「仏語名要」という辞書を出していたりする。

おかげでフランス大統領からレジョン・ドヌール賞(ナポレオンによって定められた、卓越した功績を残した軍人か市民に送られる最高勲章。5段階あり北野武や舛添さんなど、最高ランクは伊藤博文と皇族が授与)を授与された。

すごい(小並感)

 

で、ここからはこんな感じで外国語がちょっとずつ入り始めてきたことによって近代学問の先駆者達が欧米紹介をしたことを取り扱いたい。

教科書で習った通り、日本はペリーの来航から欧米列強と次々に条約を結び国交を広げていくんだけど

また福沢諭吉の話をしたい。

彼は25歳の時、日米修好通商条約の批准で勝海舟が咸臨丸の船長となってアメリカに向かった際、身分に関係なく、能力次第で活躍できることに感動を覚える。

「門閥制度は親の仇」って子どもの頃から思ってた福沢諭吉にとってはまさに別世界だっただろうなー

もちろんこの時のことも諭吉の自伝『福翁自伝』には、そのときのエピソードがいろいろ紹介されてる。土足文化とか、春に氷が残ってることとか。

あとは現地でウェブスター英語の辞書を購入して、帰国後は単語集『(増訂)華英通語』を刊行した。今度は自分が外国語を広める立場として辞書に携わることになったわけだ。それで塾の教育も英学に切り替えることになる。

その後も、幕府の使節、通訳係として欧米を視察する。結果としてなんどもアメリカに言ったわけだね。で、海外で見てきたことを『西洋事情』(全6冊)という本にまとめた。

 

この他にも昌平黌(しょうへいこう)で教師をしていた中村正直薩摩藩士の森有礼(もりありのり)が文物や学問に触れた。

「西洋事情」は上方の偽版を合わせると25万部の売れ行きだったようですが、同様によまれていたのが「西国立志篇」。これはイギリスの友人から送られたスマイルズの「自助論」を読んだ中村正直が帰国後すぐ翻訳したもので、先人の逸話から自律的な人生の理想が描かれていることで人気があった。なんと発行部数100万部以上で、「天は自らを助くるものを助く」で有名。

ちなみにこの人はもともと昌平黌の生徒でそのあと教師になってる。かつキリスト信仰者で女子教育・盲唖教育に力を入れるというかなりエリートかつ聖者って感じの功績を持ったお方。同志社大学創立者で、「自由之理」とかも出している。チートである。

 

西洋道中膝栗毛」は仮名垣魯文が西洋に行った人々の話を集めて書いた滑稽本で、西洋の風俗を紹介したとして評判になった。

もともと発行の70年くらい前、「東海道中膝栗毛」が大ヒットしてて2部作が8部作になってたり増刷しすぎて板木がすり減ったりするくらいの人気作だった。まるで某少年漫画雑誌の作品みたいにもう書くことないのに書かされる…っていうぼやきも作者側にはあったみたいだね。

今でもクドカンが映画化してたり、サザエさんの作者がもじってたりする。

 

 

森有礼はイギリスから帰ってくると旧制度の改革に努めるも、廃刀令の建議から避難を浴びた。これを受けて政府をやめた有礼は外交官としてアメリカに渡る。

再度帰国すると、アメリカのように人々が学問に触れられる場所が必要だと考えて日本にも学会「明六社」を構築した。

メンバーは箕作秋坪(みつくりしゅうへい)、西村茂樹杉亨二(すぎこうじ)、西周(にしあまね)、津田真道(つだまみち)、中村直政、福沢諭吉加藤弘之箕作麟祥森有礼の10人。

哲学、政治、経済について話し合い、「明六雑誌」によって西洋の思想・学術を紹介した。明六会は政府の言論統制に遭って2年で終わっちゃうけど、文明開化に大きく貢献することになる。

このメンバー、さっき触れた人も何人かいるし啓蒙的な思想の人が多い。

 

で、こんな感じで日本人が海外から新しい文化を受容することもあれば、海外から外国人を招いて、お雇い外国人教師として知識を教えてもらうこともあった。

 

1868年ー1889年までの間に雇った外国人の数って、

イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人。 

1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人。 

個人的体感としては

結構多いなって印象だけど実際どうなんだろう。

 

で、この中でも国別に職業が別れてて、

アメリカ人:教師、フランス人:軍の雇用、ドイツ人:政府雇用、イタリア人:芸術家育成、オランダ人:民間(海軍や土木) 

みたいなそれぞれの国の専門みたいのがあった。

 

そんで、政府は日本の近代化のために貧しい中で高給によって外国人を招くことになります。外国人の中でも熱心な日本人に対して真摯に指導する人も多かったみたい

 

お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られている。

太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円で、

外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。

その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されていて、1890年までの平均では、月俸180円。 

身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、かなり高額だったみたいだね。

最高1000円超えるってすごいよね。

とはいえ今の金額に換算して380万円ほど?

日本の財政キツキツだったんだろうなあっていう印象…

 

理由としては国際的に極度の円安状況だったこともありつつ、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによるらしい。 

 中には善意で来てくれる人もいただろうけど、かなりこの人たちも教えにきてやってるってスタンスだったのかもね。

 

有名な御雇外国人教師としてあげられるのは 

ボアソナード、クラーク、ベルツ、フェノロサ、フォンタネージ、ラグーザ、ヘボンとか。 

ボアソナードは法学のためにやって来ました。法制を改めることに尽力するも民法は大きな反対を招き、施行されるには至らず。 

クラークは北海道の農業活動を促すためにやって来た。キリスト教の布教も行なっていたために新渡戸稲造内村鑑三キリスト教徒として輩出することになった。

クラークって元素記号の歌が一番印象強いけどな…笑

ベルツは医者としてやって来た。東京医療学校で内科学、産婦人科について講義を行い、29年の日本滞在の間に日本の自然についても成果をあげた。

フェロノサは理財学、哲学を講じるも、日本美術に興味を持ち仏像の調査を進め、帰国後ボストン美術館の東洋部長になった。

フォンタネージは油絵を、ラグーザは彫刻を伝えます。これによって日本は美術においても近代化を図ることに。 

ヘボンは本当であればヘップバーンという名ですが、滞在期間33年の間に宣教師と医療知識を伝えることに加え「和英語林集成」をつくります。この辞書を編纂するために作られたのがローマ字の日本語表記であるヘボン式 

 

大学と小学校

 

近代化のために、日本は御雇外国人教師と合わせて学校を立てることにも力を入れた。開成学校、医学校、東京大学を創立した。東京大学は、法、理、文、医の4学部からスタートし、西洋のテキスト、言語によって講義を行った。生徒はそれについていくことが難しく大学予備門が作られる。これがのちに第一高等中学校になる。

 

大学は1886年帝国大学となり、京都帝国大学が設置されるとともに、東京大学東京帝国大学と名を改めることになる。帝国大学は法科学科、人文学科など単科大学を総合した形を取っていたが、のちに学部に改められるようになる。

大学は欧米の進んだ学問を習得する場として設けられたが、徐々に小学校と男子のための中学、女子のための高等女学校が作られる。加えて、小学校教師育成期間に当たった、師範学校女子師範学校、中学校、高等女学校教師育成のための高等師範学校、女子高等師範学校、その他専門学校があった。また、中学校卒業後大学進学者のために高等学校が設置されるようになる。

1872年に学制が発布され、小学校が義務教育となるも、子供は家庭にとって労働力であったために制度の定着には時間を要した。

その一方で、現存する開智小学校、旧水海道小学校(みつかいどうしょうがっこう)ネドからはアタなしい時代に向けて投資した素封家(そほうか)や、建築に力を注いだ棟梁の意気込みが感じられる。

 

ここら辺の話は文部科学省の方に何年かごとに図が載ってて見れば一発でわかるかなと。正直教職とってる人は一回は目にしたことがあるんじゃないかなっていう図が見れる。

というかやっぱり教育改革が始まった直後は特に外国語バリバリの授業形態だったから大学生なんて言ったら価値が高かったんだなって自分の目で確かめられる。

 

近代文学の成立

近代化は都市部を中心に急速に勧められたが、民衆への浸透は遅く、地域もかなり限定されたものだった。時代は繰り返すとはよく言ったもので、魯迅に代表されるような中国の文学革命や、ルターの聖書ドイツ語訳といったように、民衆の思想改革に一役買うのは文学であることは世界各地で見かけられるが、日本についても同様であるように見られる。

和歌や古文、漢文といった今まで使って来た言葉は、近代化して今までとは異なる性質の思想を表すには不適切であると考えるようになった。

坪内逍遥は「小説神髄」をしたため、シャークスピアの戯曲を翻訳し、近代的演劇の先駆者となった。

二葉亭四迷はロシアの文学に接し、特にツルゲーネフの小説を翻訳するなどします。また、代表作「浮雲」でも有名。

国木田独歩(くにきだどっぽ)はキリスト教に入信し、最初の作品はロマン主義であったものののちに自然主義的小説を書く。

島崎藤村キリスト教に入信し、ロマン主義から自然主義に変遷し「破戒」「家」「夜明け前」を生み出す。

一方、夏目漱石は英文学を学ぶも、日本の近代化と近代的個人個人について思想を重ね、自己の立場を守り続けることになる。

また、森鴎外も陸軍軍医でありながらドイツ文学を研究し、翻訳や自然主義に対抗する形で歴史小説を残すことになった。

 

 とりあえず気が向いたらもうちょっと編集して付け足そうかなー

 

本日のお絵かき〜

f:id:marumaru_game:20180613221910j:plain

 今話題の(?)カジノを意識して描いてみた!

 

すでにお話持ってるゲームとかでキャラのこと知ってもらえたかな〜みたいな段階で、

こうやってカードの数ごとにおんなじ人数のキャラがいて、よく見たら実は動いてて、交換されたり勝ったり負けたときに反応あったら面白いかなーとかちょっと思ったり…笑

負けた時つらいなー笑

あとちょっと金属のきらめきに憧れて物は試しにと思って描いて来たみたけどどうかね〜笑

また色々試そう。゚( ゚^∀^゚)゚。 

あと今度は逆光とか挑戦したいな!