marumaru_game’s blog

プログラミングとお絵描きの進捗を報告するためのブログです。ミニマム週一であげたい。

見出しが全て?

はてなブログの読者さんてどんな話題が好きなんだろう。日本文化って結構好きって方多いなかなあ?( ´∀`)

それとも別の話題にした時の私の見出しのつけ方がダメなのか…

テレビとかエンタメネタならみんな知ってて興味湧く…?

いずれにせよせっかく何か一つにことを始めたなら色々考えながら書かなくちゃね。読みたいって思えるトピックを選べたらいいなあ。

 

 

今週はゼミで勉強した明治維新期の文化をざっくり載せたものをあげようと思うんだけど、今回の大まかな流れは

 

江戸後期に辞書の導入によって学者が外国語の知識を深めて海外進出を進めるとともに、欧米に見習って国内の整備を進めていったよって話。

 

そんで、福沢諭吉ってもはや近代思想期の擬人化だからちょっと年表出してみようと思う。

  

福沢諭吉の生涯

大阪で生まれるも、父親の死によって大阪から大分に帰る。

兄と長崎にでて蘭学(らんがく)を学ぶ。

福沢諭吉が大阪に出て、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾(てきじゅく)で蘭学を学び、塾長(じゅくちょう)になる。

福沢諭吉が江戸で蘭学(らんがく)の塾を開く。

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横浜を見物して、外国人にオランダ語で話しかけるが、まったく話が通じないため、 ショックを受ける。これよりこれからは英語が必要であることを知り、英語の勉強を始める。

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福沢諭吉江戸幕府の軍艦「咸臨丸(かんりんまる)」でアメリカに行く。

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福沢諭吉江戸幕府の通訳(つうやく)としてヨーロッパ諸国へ行き、その時のこととして「西洋事情(せいようじじょう)」を発行する。西洋の生活を日本人に伝える。

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福沢諭吉江戸幕府の翻訳御用(ほんやくごよう)になる。

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福沢諭吉慶応義塾(けいおうぎじゅく 今の慶応義塾大学)を開く。

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福沢諭吉が「学問のすすめ」を発行する。

学問のすすめ

「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず…」ではじまる

340万部以上が売れ、国民の10人に1人が読むというベストセラーになる。

「時事新報(じじしんぽう)」を発行する。

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病死(68才)

 

ざっくりした人生はこんな感じ。

 で、辞書に関わる部分は二箇所あって、まず一つ目は緒方洪庵適塾にいた頃の話。

彼は60歳の時に「福翁自伝」っていう口語体(というか忙しさを理由に自分の言ったことを他人に書き起こさせた)の自叙伝出していて、「時事新報」っていう自分で創刊した新聞に乗っけているんだけど、そこにも塾生時代のことが載ってるのね。

この本自体歴史的に価値のあるものでもあるから重要で、諭吉さんのパーソナリティーもよくわかる。「門閥制度は親の仇」っていう言葉で有名だったり。お父さんは能力はあったけど身分が高くなかったせいで出世できなかったってところからきてるみたいね。

ちなみに塾生時代もまあ過激というか奇抜というか、

夏の暑さに真っ裸で過ごす塾生たちが、下女を追い払うために真っ裸のまま下女の前に出てたんだけど、福沢諭吉もそんな感じで女の人に呼ばれてでてったら先生の奥さんだったみたいな。

今やったら多分確実に捕まるよね。笑

実際他にも見ていくと鯛茶ずけを食べさせたのを確認した後にフグ茶ずけだって言ってみたりとか曲者感が強い笑

まあそれはさておき、「道富波留麻」っていう蘭和辞書を使って塾生はもう勉強する。もう勉強しすぎて病気になった時初めて枕使ってなかったなって気づくくらい塾生みんな勉強する。

(道富波留麻:オランダ船船長ドゥーフハルマが、母国をフランスに侵略され帰国をおくらせる中書いた。50000語収録。全50巻)

その後も江戸に出てた後、適塾で勉強したオランダ語使って外国人に横浜で話かけるんだけどみんな英語使ってるから全然話通じなくて超ショック。その後英語にシフトチェンジするんだけど、教えてくれる人が周りにいなくてここでも英和辞書を使って勉強を始めるんだよね。これが二つ目かな。

他にもフェートン号事件(イギリスがオランダを出島から締め出した事件)を目の当たりにした幕府が本木正栄に命じて「諳厄利亜語林大成」っていう小英和辞書を作らせたり、

当時唯一幕府の中で英語ができた堀達之助実質日本初の英和辞典「英和対訳袖珍辞書」(えいわたいやくしゅうちんじしょ)を完成させる。

もともと堀達之助はオランダ通詞の家から同じ職業の家庭の養子になったらしいからどう転んでもエリートだよなあ…

村上英俊はオランダ語の化学書で火薬知識を手に入れようとするも、フランス語版がきてしまったからなんとか自分で解読して火薬の知識を身につけた。なおかつ「達理堂」というフランス語塾を開いてそこから「仏語名要」という辞書を出していたりする。

おかげでフランス大統領からレジョン・ドヌール賞(ナポレオンによって定められた、卓越した功績を残した軍人か市民に送られる最高勲章。5段階あり北野武や舛添さんなど、最高ランクは伊藤博文と皇族が授与)を授与された。

すごい(小並感)

 

で、ここからはこんな感じで外国語がちょっとずつ入り始めてきたことによって近代学問の先駆者達が欧米紹介をしたことを取り扱いたい。

教科書で習った通り、日本はペリーの来航から欧米列強と次々に条約を結び国交を広げていくんだけど

また福沢諭吉の話をしたい。

彼は25歳の時、日米修好通商条約の批准で勝海舟が咸臨丸の船長となってアメリカに向かった際、身分に関係なく、能力次第で活躍できることに感動を覚える。

「門閥制度は親の仇」って子どもの頃から思ってた福沢諭吉にとってはまさに別世界だっただろうなー

もちろんこの時のことも諭吉の自伝『福翁自伝』には、そのときのエピソードがいろいろ紹介されてる。土足文化とか、春に氷が残ってることとか。

あとは現地でウェブスター英語の辞書を購入して、帰国後は単語集『(増訂)華英通語』を刊行した。今度は自分が外国語を広める立場として辞書に携わることになったわけだ。それで塾の教育も英学に切り替えることになる。

その後も、幕府の使節、通訳係として欧米を視察する。結果としてなんどもアメリカに言ったわけだね。で、海外で見てきたことを『西洋事情』(全6冊)という本にまとめた。

 

この他にも昌平黌(しょうへいこう)で教師をしていた中村正直薩摩藩士の森有礼(もりありのり)が文物や学問に触れた。

「西洋事情」は上方の偽版を合わせると25万部の売れ行きだったようですが、同様によまれていたのが「西国立志篇」。これはイギリスの友人から送られたスマイルズの「自助論」を読んだ中村正直が帰国後すぐ翻訳したもので、先人の逸話から自律的な人生の理想が描かれていることで人気があった。なんと発行部数100万部以上で、「天は自らを助くるものを助く」で有名。

ちなみにこの人はもともと昌平黌の生徒でそのあと教師になってる。かつキリスト信仰者で女子教育・盲唖教育に力を入れるというかなりエリートかつ聖者って感じの功績を持ったお方。同志社大学創立者で、「自由之理」とかも出している。チートである。

 

西洋道中膝栗毛」は仮名垣魯文が西洋に行った人々の話を集めて書いた滑稽本で、西洋の風俗を紹介したとして評判になった。

もともと発行の70年くらい前、「東海道中膝栗毛」が大ヒットしてて2部作が8部作になってたり増刷しすぎて板木がすり減ったりするくらいの人気作だった。まるで某少年漫画雑誌の作品みたいにもう書くことないのに書かされる…っていうぼやきも作者側にはあったみたいだね。

今でもクドカンが映画化してたり、サザエさんの作者がもじってたりする。

 

 

森有礼はイギリスから帰ってくると旧制度の改革に努めるも、廃刀令の建議から避難を浴びた。これを受けて政府をやめた有礼は外交官としてアメリカに渡る。

再度帰国すると、アメリカのように人々が学問に触れられる場所が必要だと考えて日本にも学会「明六社」を構築した。

メンバーは箕作秋坪(みつくりしゅうへい)、西村茂樹杉亨二(すぎこうじ)、西周(にしあまね)、津田真道(つだまみち)、中村直政、福沢諭吉加藤弘之箕作麟祥森有礼の10人。

哲学、政治、経済について話し合い、「明六雑誌」によって西洋の思想・学術を紹介した。明六会は政府の言論統制に遭って2年で終わっちゃうけど、文明開化に大きく貢献することになる。

このメンバー、さっき触れた人も何人かいるし啓蒙的な思想の人が多い。

 

で、こんな感じで日本人が海外から新しい文化を受容することもあれば、海外から外国人を招いて、お雇い外国人教師として知識を教えてもらうこともあった。

 

1868年ー1889年までの間に雇った外国人の数って、

イギリス人1,127人、アメリカ人414人、フランス人333人、中国人250人、ドイツ人215人、オランダ人99人、その他252人。 

1900年までとすると、イギリス人4,353人、フランス人1,578人、ドイツ人1,223人、アメリカ人1,213人。 

個人的体感としては

結構多いなって印象だけど実際どうなんだろう。

 

で、この中でも国別に職業が別れてて、

アメリカ人:教師、フランス人:軍の雇用、ドイツ人:政府雇用、イタリア人:芸術家育成、オランダ人:民間(海軍や土木) 

みたいなそれぞれの国の専門みたいのがあった。

 

そんで、政府は日本の近代化のために貧しい中で高給によって外国人を招くことになります。外国人の中でも熱心な日本人に対して真摯に指導する人も多かったみたい

 

お雇い外国人は高額な報酬で雇用されたことが知られている。

太政大臣三条実美の月俸が800円、右大臣岩倉具視が600円で、

外国人の最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーの1,045円であった。

その他グイド・フルベッキやアルベール・シャルル・デュ・ブスケが600円で雇用されていて、1890年までの平均では、月俸180円。 

身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、かなり高額だったみたいだね。

最高1000円超えるってすごいよね。

とはいえ今の金額に換算して380万円ほど?

日本の財政キツキツだったんだろうなあっていう印象…

 

理由としては国際的に極度の円安状況だったこともありつつ、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘することが困難だったことによるらしい。 

 中には善意で来てくれる人もいただろうけど、かなりこの人たちも教えにきてやってるってスタンスだったのかもね。

 

有名な御雇外国人教師としてあげられるのは 

ボアソナード、クラーク、ベルツ、フェノロサ、フォンタネージ、ラグーザ、ヘボンとか。 

ボアソナードは法学のためにやって来ました。法制を改めることに尽力するも民法は大きな反対を招き、施行されるには至らず。 

クラークは北海道の農業活動を促すためにやって来た。キリスト教の布教も行なっていたために新渡戸稲造内村鑑三キリスト教徒として輩出することになった。

クラークって元素記号の歌が一番印象強いけどな…笑

ベルツは医者としてやって来た。東京医療学校で内科学、産婦人科について講義を行い、29年の日本滞在の間に日本の自然についても成果をあげた。

フェロノサは理財学、哲学を講じるも、日本美術に興味を持ち仏像の調査を進め、帰国後ボストン美術館の東洋部長になった。

フォンタネージは油絵を、ラグーザは彫刻を伝えます。これによって日本は美術においても近代化を図ることに。 

ヘボンは本当であればヘップバーンという名ですが、滞在期間33年の間に宣教師と医療知識を伝えることに加え「和英語林集成」をつくります。この辞書を編纂するために作られたのがローマ字の日本語表記であるヘボン式 

 

大学と小学校

 

近代化のために、日本は御雇外国人教師と合わせて学校を立てることにも力を入れた。開成学校、医学校、東京大学を創立した。東京大学は、法、理、文、医の4学部からスタートし、西洋のテキスト、言語によって講義を行った。生徒はそれについていくことが難しく大学予備門が作られる。これがのちに第一高等中学校になる。

 

大学は1886年帝国大学となり、京都帝国大学が設置されるとともに、東京大学東京帝国大学と名を改めることになる。帝国大学は法科学科、人文学科など単科大学を総合した形を取っていたが、のちに学部に改められるようになる。

大学は欧米の進んだ学問を習得する場として設けられたが、徐々に小学校と男子のための中学、女子のための高等女学校が作られる。加えて、小学校教師育成期間に当たった、師範学校女子師範学校、中学校、高等女学校教師育成のための高等師範学校、女子高等師範学校、その他専門学校があった。また、中学校卒業後大学進学者のために高等学校が設置されるようになる。

1872年に学制が発布され、小学校が義務教育となるも、子供は家庭にとって労働力であったために制度の定着には時間を要した。

その一方で、現存する開智小学校、旧水海道小学校(みつかいどうしょうがっこう)ネドからはアタなしい時代に向けて投資した素封家(そほうか)や、建築に力を注いだ棟梁の意気込みが感じられる。

 

ここら辺の話は文部科学省の方に何年かごとに図が載ってて見れば一発でわかるかなと。正直教職とってる人は一回は目にしたことがあるんじゃないかなっていう図が見れる。

というかやっぱり教育改革が始まった直後は特に外国語バリバリの授業形態だったから大学生なんて言ったら価値が高かったんだなって自分の目で確かめられる。

 

近代文学の成立

近代化は都市部を中心に急速に勧められたが、民衆への浸透は遅く、地域もかなり限定されたものだった。時代は繰り返すとはよく言ったもので、魯迅に代表されるような中国の文学革命や、ルターの聖書ドイツ語訳といったように、民衆の思想改革に一役買うのは文学であることは世界各地で見かけられるが、日本についても同様であるように見られる。

和歌や古文、漢文といった今まで使って来た言葉は、近代化して今までとは異なる性質の思想を表すには不適切であると考えるようになった。

坪内逍遥は「小説神髄」をしたため、シャークスピアの戯曲を翻訳し、近代的演劇の先駆者となった。

二葉亭四迷はロシアの文学に接し、特にツルゲーネフの小説を翻訳するなどします。また、代表作「浮雲」でも有名。

国木田独歩(くにきだどっぽ)はキリスト教に入信し、最初の作品はロマン主義であったものののちに自然主義的小説を書く。

島崎藤村キリスト教に入信し、ロマン主義から自然主義に変遷し「破戒」「家」「夜明け前」を生み出す。

一方、夏目漱石は英文学を学ぶも、日本の近代化と近代的個人個人について思想を重ね、自己の立場を守り続けることになる。

また、森鴎外も陸軍軍医でありながらドイツ文学を研究し、翻訳や自然主義に対抗する形で歴史小説を残すことになった。

 

 とりあえず気が向いたらもうちょっと編集して付け足そうかなー

 

本日のお絵かき〜

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 今話題の(?)カジノを意識して描いてみた!

 

すでにお話持ってるゲームとかでキャラのこと知ってもらえたかな〜みたいな段階で、

こうやってカードの数ごとにおんなじ人数のキャラがいて、よく見たら実は動いてて、交換されたり勝ったり負けたときに反応あったら面白いかなーとかちょっと思ったり…笑

負けた時つらいなー笑

あとちょっと金属のきらめきに憧れて物は試しにと思って描いて来たみたけどどうかね〜笑

また色々試そう。゚( ゚^∀^゚)゚。 

あと今度は逆光とか挑戦したいな!